麗ブログ

うらぶろぐ

純粋にわからないんだけど

 罰当たりなことを書きます、すみません。。。

 うちの実家は無宗教で、祖母や母はとある宗教の半信者(祖母は複数の宗教の洗礼を受けたりしているし、母の実家も別の宗教をやってた)だったりして、母も父の猛反対でかつて棄教っぽいことをしていたらしい。私が小学校低学年の頃は家族でクリスマス会をしていたのに或る年から「うちはキリスト教じゃないからクリスマスはやらない」と言い出してただ単にごちそう食べたりする日になったし(父は家族行事は大好きだからごちそうは食べる)、何故かその頃から正式に「無宗教」になった。私はお墓参りというのも行ったことが無かったし、観光で寺社仏閣に行くのは両親共に好きみたいなのにそこで一度もお賽銭をあげたことが無かったので、未だに私はお参りのやり方がわからない(二拝……なんとかが聞いても何度見ながらやってもややこしくてどうしてもわからない)。七五三などの行事は写真だけは撮った。母方の祖父が亡くなった時に母が自分の父親の為に居間の隅にコーヒーを供えるのを見て私も内心びっくりしていたけれど父はよく思っていなかったらしく、今はまあいいけどそういうのは好きじゃない、一か月間だけにしてほしいとか苦々し気に言っていた。初詣のようなものにも行ったことがない。詣でないのだから初も何もない。

 

 ところが私が結婚した後、三十代半ばの頃に実家で同居していた父方祖母が無くなってから、何故か親が仏壇?みたいなのを買ってきて、その頃には私はもう家を出てその家の人間ではなかったのでそれがどういうものがよくわからないけれど、仏壇に拝むなんてむしろ母方の実家のことで父は嫌がっていたのに、祖母に線香あげようねとか言い出して、正直意味がわからなかった。祖母の葬式は仏式でもキリスト教式でもなかった。音楽葬?とか名前を付けていた。よその仏教のお葬式などには行ったことがあったけれど(焼香とかは経験あり)仏壇に手を合わせる時に何をするのかはわからない。おリンをカーンというのをやって、線香あげる、手を合わせる、という時にまあもちろん手順などわからないから親のやっているのを見て真似しながら、突然何を始めたんだ、何をさせるんだろうとむしろよくわからない新興宗教でも始めたかのように両親のすることが不気味に感じられた。

 

 多分私の中でそういう宗教的な行事や感覚が身についておらず、学校がキリスト教だったので全く宗教にかかわりが無かった訳ではないけれど、私には日本人的な素養が無いのだと思う。神とか仏とか八百万の神という感覚も無いし、そういうのはすごく戸惑うのだ。私も結婚してからは、義実家の人達に倣ってお寺神社で入口の手を洗うのをやったり、お賽銭をあげたり、あとお守りを買ったりもするようになった。葬式用に義母が数珠をくれた。でも義母がいないと一人では神社でパンパンおじぎとかどうやってするのかどうしてもわからない。覚えようとはしているんだけど難しくてどうしても身につかない。私が発達障害で覚えるのが難しいというのもあるかもしれないけれど、小さい頃から習慣が無いことを大人になってから求められるとなかなかできないもんなんだなと思った。そしてそういう意識自体小さいうちから慣れていないと身につかない気がする。

 

 で、そういう前提なんだけど、うちや兄のところに子供が生まれてから、お盆に実家に集まろうと言われるようになって、何を言ってるんだ?と本当に戸惑っている。お盆というのは8月15日頃の何か、祖先の魂が帰ってくる日?というのは知っているけど、今まで実家でお盆的なことをしたことは一度も無い。家が無宗教だったのだから。そもそも帰ってくる祖先って誰のことだかわからない。帰ってくるとしたら祖先は別の所に(親戚たちのいる、遠い西日本の方とか)帰ってくるんだと思うし。それなのに、こないだ実家の仏壇には知らない男の人の白黒写真があって、どうやらそれまで見たことも無かった父方の私の祖父の写真のようだ。手を合わせろと言われても……。私の生まれるずっと前に亡くなっていたらしく、悪口しか聞いたことなかったし。祖先を敬うような意識は私の中に無いし、これからもどうやって持てばいいのかわからない。仏教なの?私には本当にわからない。どうしちゃったの??何言ってるの?私がとある宗教(母方の実家の宗教)の勉強をしたら殴ってきたくせに、何やってるの?孫が生まれたからとか、自分の親が亡くなったからとかでこの変わり身は。話し合う必要もないし、実家とはあまり関わらないようにしているので何も言わずにいるけど……。本当にわからない。

コミュニケーションの行き詰まり。ADHDの話


話が通じない、何を言われてるのかわからない


 仕事ではないけれど趣味レベルで何かする時に人とやり取りしなきゃいけないことがよく有って、昔からそういう時のトラブルは多かったんです。メール等で何回やり取りしても相手が何言ってるか理解できない。自分が何を理解していないかも理解できなかったのか、~~についてわからない、これはこういうことですか?こうすればいいですか?どうすればいいですか?と聞いても、何について何を言ってるかわからない返事が返って来る。何度聞き返してもわからない。何でだと思ってたけど多分私の言うことが相手に伝わってなかったし、相手の言うことの主語、指示語代名詞なんかが私には何を指してるのかわからないんだと思う。直の会話だと余計わからないからメールの方がまし、だけどやっぱり駄目。そんな感じで途中で諦めてしまうことがよくあった。

 そういう訳で文学関連の活動も人と一緒にやるのは無理とわかったので一旦引くことにしました。
 同じ文章でも小説だと読んで言ってることはまあまあわかるのに(尋常でないくらいわからないこともある)、メールだとどういう訳か全然駄目……。直の会話も私が自分で思ってる以上に相手の言うことがわからなくて、無意識にわかってるふりしたりわかってる顔したりテンポ良く反応したりしていたみたい。頭で補整して聞いているから、正しくないし、自分が本当は理解しているのかどうかといったことも自覚しにくい。また、自分が思ってるのと反対の事を言っていることが多いのも最近わかってきた。私一人の問題ならまだいいけど、あまりにも相手に迷惑がかかってしまうので、本当に申し訳なくなって、人と本作るのも、何かに寄稿したりするのも今後できないと思う。(アンソロジー本への寄稿とかも本当はもっとしたかったんだけど、普段やり取りしない相手とのやり取りは反応が読めないので、伝えるのも相手の言う意味を受け取るのも本当に難しかったです)。
 今後やるとしたら自分一人でやると思う。作品は書けるんだけど……。

 考えてみたらダンスサークル作ってた頃もすごく苦労して。いろんな人が協力を申し出てくれてたのに、言葉のやり取りができない。。。で、縁が切れてしまったり。何でだかわからなかったです。だからADHDと言われた時やっと納得しました。

曖昧が苦手……

 私はちょっと曖昧なことは全然理解できないようです。特に事務連絡の時は普段使う言葉でも辞書引いて曖昧でないはっきり正確な意味を調べることもあるけど、小説の中では大抵わかるような文脈がメールではわからなかったり。だから何て返事したらいいのか?わからない。国語の成績は良かったのに、全然別なんですね。

 一般的に共通認識として皆が持ってる、口語の中で使用している言葉やニュアンスが私には読み取れないんだと思う。そういうのも結構曖昧で、はっきりこういう場合はこう、というのが決まっていないから。そういうのがわからない、というの自体相手にはなかなかわかってもらえないし(自分でもよくわからないくらいだから仕方がない)。

 それでもって一旦思い込んだら、違うかも、と思って調べたりすらしてるのになかなか頭の中の情報を修正、書き換えできなくて。数分前に考えたことも覚えていられないから私の記憶もかなり曖昧で、その曖昧な情報を整理できないまま調べるとまた新たな情報で混乱して、あきらかに矛盾したとんちんかんなことを言ってたり。

面倒くさがり、とは限らない

 メールの返事しなきゃと思いつつ結構面倒に思うことが多くて後回しにしてしまい、そのまま忘れてしまうことが多いです。ADHDの人は面倒臭く感じやすいのかと思ったけど、必ずしもそうじゃないと思う。「わかりました」の一言だけメールすれば用だけは足りる時でも、やっぱりそういう訳にもいかず、他にいろいろ書かないといけないから真面目に考え過ぎてしまい、そっけなさすぎやしないか、こう書いたらこっちが怒ってると誤解されるんじゃないか、とかあれこれすごい時間をかけて考え、また、自分で何気なく書いた暑いですね、の一言すら、相手の住んでいる地域は本当に暑いのか?と考えて地方の天気を調べたりなんだりしてしまう。全国の天気予報を何となくでも覚えていれば適当に書いていいと思うけれど、私は一日に何度見ても自分の地域の天気予報が覚えていられないし、相手の地域で竜巻が起こって暴風大雨洪水警報が出てるとか天気系の特殊な話題が連日出ていても絶対忘れてしまい、いい天気ですねとか言ってしまうかもしれない。ふつう感じる常識が覚えていられないから、私の感覚が特殊かもしれないと思って。また何百回やってることでも覚えられないので、これくらいの親しさの場合「何々さん」と書くか「何々さんへ」と書くか。「〇〇(サークル名など)何々様」と書くべきか、他の人はどう書いているか、一般的にどうなのか、サークル名と名前の間は改行するのが正しいのかとか様はいつも漢字だったか、この人にはいつも「さま」とひらがなでかいていたかとか、過去のメールを調べ出して、私の場合メールソフトを使いこなせないので過去のメールが見つからずその作業も手間取って非常に時間がかかる。その他書きながら本当に細かいことまでわからなくなってしまうので、結果時間が無くなってその日にメールを送信できない。本当に面倒くさがりならそこまで考えずさらっと短いメールを送っておしまい、にできるんじゃないかと思う。考え過ぎと言われるが、「〇〇さんへ、わかりました。なのりより。」と本当に一行で書くのもあまりにも普段と違うから何か変に思われても嫌だし、大袈裟でなく下手するとその「〇〇さん」という名前を間違えている危険があるのだ(忘れたり、混乱したり、素で他の人と間違えていたり、変換ミスしたりで)。どんなに親しい人相手でも。そこを間違えるのはさすがに怖いというか、嫌だ。。だから結構何度も相手の名前を確認したりする。メール一つするのにそういう手順を踏まないといけないのはやっぱり誰だって多少はめんどくさいでしょう?だからメール一つも書けないくらい、人より極端に面倒くさがり、という訳ではないと思います。普通はもっと手順が少ないのだから。
 詳しく書き過ぎましたがそんな感じです。だからメールはすごく苦手で、携帯メールなどでも相手の要件がなんだったか忘れてしまうので何度も下書き保存、受信メールボックスに移動、確認してから下書きを再開、というのを本当に何度も何度も繰り返している。絵文字を選んだらまた相手のメールの内容を忘れているので、用件が2,3件あったら本当もう駄目。何日もかかる。だからメールより、相手の手紙を横に置いて見ながら書ける、自分でどこに何を書いたかわかりやすい手紙の方が書きやすかったりします。(引用返信すれば下の方に相手からのメールが出てくるけど、何度も何度も下に行ったり上に行ったりしないといけないし場所がわからないから書いてあるところ毎回毎回探すの大変)。

論理が重要なので、人の論理をそのまま使うしかない

 こういうので子供の頃も家族にイライラされてたんだろうなと思う。私も実家では居心地が悪かったけど、かなりせっかちな親が私にイライラするのもわかるなって。人は自分を基準にするから、自分に簡単にできることが相手にできないとイライラしますよね。丁寧に説明しても理解できないと思います。ぽんやりしてるから、とか、注意が足りないから、とか、サボるから、とかいい加減だから、とか、本当はできるのにやらない駄目なやつと言われます。だから私は人から叱られてきたように、自分が単にいい加減でずぼらでだらしない不真面目な人間だと思い込んでたところがあるけど、でもよくよく考えたら、私は注意が足りないけど真面目で、日々神経使って人の顔色伺いながら気をつかって生きてきていました。それでもこの程度だけど。本当物心ついてからずっとストレスフルでした。




 最近、幸せになるために生きてる、と知人が言ってたのを聞いて、そうだなあ、そういう考え方もあるんだなあと思いました。私は楽しむのも幸せになるのも後ろめたいというか、まずきちんとやるべきことをして、それから楽しむべきなのに、そのやるべきことができず、部屋は片付けられないしメールの返事も書けてない、あれもできてないこれもできてない、すぐやらないと忘れるかもしれない(かなりの勢いで忘れる)、なのにその状況でやりたいことをするのはまあ普通の神経では多少なりとも後ろめたくなるんじゃないかと思う。だからいつもうしろめたい。
 でも、頑張って全部できてから楽しもう、人と交流しようと思ってこのままでいたら結局何もできないし、普通に努力すればしなきゃいけないことができるようになるわけじゃない。
 じゃあどうやったらできないことが楽にできるか、どうしたら楽しみながらできるか、考えた方がいいと思う。そういうのを考えるのは人に怒られさえしなければわりに私にもできるんじゃないか?と思います。
 主治医には、自分はそういう人だと割り切って生きた方がいいと言われました。メールには改行無しの一行で返す、相手の名前を間違える、自分の名前を間違える、挨拶を忘れる、返事の内容を書き忘れる、前に言ったことを忘れる、相手に不幸があったばかりでも忘れる、人の話をちゃんと聞いてない、忘れる、気遣いを忘れる、でも悪気は無い、本当にできないだけの人。そういう人として理解してもらえたらまあありがたいけど。皆が親しい人じゃないし、寛容じゃないし、優しい人じゃないし、なかなか理解してもらえないこともあるでしょうけれど。
 人には言ってもしょうがない話でした。

気を遣っているのか、身を守っているのか

最近ブログ書いていなかったのでメモとして。

 

 とある整体みたいなのに行ってみた。初対面なのに結構会ってすぐにきさくな先生から、あなたは周りの人に気を遣いすぎ、と言われてしまった。予約時のメールの文面とかからしてそれがすごく出ていたとのこと。。。言われてみると確かに。

 でも、どちらかというと私は気が付かない方だったので、周囲の様子に気を付けるように努力して、その加減がよくわからないからとりあえず思いつく限り丁寧にしておく、ということをしているだけで、子供時代は、全く気が利かないわけではないけど、周囲のことに気が付かない、という評価を受けることが多かった。親に一番よく言われて困ったのが、「おまえは赤ん坊の死体が落ちてても気が付かない」という例えで、少なくとも私の周りでそういう事件は起こったことが無いしそんなこと言われても……だからそんなことはないと反論できなくて。親の世代ではそういうこともあったんだろうか。何で繰り返しそう言われてたのかわからないけれど、ADHDだから子供の時から注意力に欠陥があったのは確かにそうなのかもしれないとは思う。一方で、私が好きな事にはかなり熱中している様子を見た母親に「熱中しすぎるな、そういうところ気を付けないと」という風に言われていた。高校生くらいになっても。だから私は我が家の一大イベントである受験を意識して、好きな物事に熱中しないように気を付けてはいて(「ほどほどに丁度良く集中する」のはどうしても無理だった。するかしないかしかできない)、つまり、周囲をよく見て、好きな物事に集中しない、でも必要な事には集中しなくてはいけない、というかなり私にとって無理な頑張り方をしていたのだった。無理だったけど。

 だから加減がわからず気を抜くと今度は抜き過ぎてしまって、社会人として、または人としてまずいことをしてしまうんじゃないかというのがとても怖い。気を遣うのも、そうしないと相手に相当迷惑をかけることがあるから。本当実際、洒落にならないことをすることがある。大学に入って、狭い家庭から外に出てから特にそうだったけれど、バイトとか、人とやりとりする時でも雑談する時でも、もうちょっとこうできないの?もう二十歳過ぎてるんだよね?もう大人だよね?という注意のされ方はいろんな人から受けてるし。特に、けじめとして人に自分の考えを伝えたり、仁義を通したりすることに関しては、当時の私にはやるべきという発想も無く、やるとしたらどこまでやっていいのか全くわからなかった。いろいろあったけどわかりやすい例では、ありがとう、ごめんなさい、お願いします、といったこと。一回言えばいいのか、何度でも感情をこめて、いろんな言葉を駆使して大袈裟に伝えないといけないのか。大人ならできて当然なことが私にできていないのはわかっていた。指摘されてから努力は始めたけれど、今も多分できないことが多い。だからできるだけ気は使わないといけなくて。先ほど、気を遣わないと迷惑をかける、と書いたけれど、それ以上に、気を遣わないと攻撃される、とも思っていた。私は人から攻撃されることが結構多かった(注意してくれた人達のことじゃなくて。もっと本当に悪意がある知らない人とか。私をいじめていた同居の祖母とか)。周りに敵が多いことも知っていた。初対面の人が攻撃してこないとも限らない。だから気を遣う。そういう意味で、私はあんまり安心できる場所がない。身を守る為に丁寧にして、相手に譲っているのだ。心は憎しみに満ちていても。

 実はありがとうというのも苦手で、もちろん人一倍言うけれど、言葉とか表情とか声色とか態度とかしぐさとか、どこまでやればいいのかわからないからやりすぎる。まあー〇〇さん、(感嘆詞と相手の名前や先生、などの人称代名詞を入れるのがポイント)本当にすみませんすみません、ご親切にありがとうございます、本当に。と何度も何度も言ってると、気持ちよりも相手にどう見えるか、ということばかり意識してしまって。そういう場面って、大人同士別に本心なんてどうでもいいことが多いけれど、それで丁寧な人、優しい人、親切な人、誠実な人、と思われてしまうと結構つらい。実は内心、そうしないといけないと思ってやってるだけで、こんな気を遣わないといけないことにうんざりして、疲れて、いやいややってたりするから。私が自分で思ってるよりは毒が無いしいい人なのかもしれないけれど、優しい人と言われると、実際がどうあれ結構嫌な気持ちになる。この、自分で嫌な気持ちになるのが良くないのだ。自分が嫌でなければどう振舞っても別にいいと思うんだけど。

そういうことをいろいろ考えてしまった。

山崎十日市で買ったもの

先日山崎の十日市に行ってきました。何度か行ったことがあったんですが、十年以上続いているとのことで結構歴史があるんですね。

手作り品がメインなようですが、その他のものもありました。

 

いろんなサイズのがま口があってめちゃくちゃ迷ってしまいました。柄がどれも素敵で、センスがいいなあ~。気になったうちの、一番使いそうなサイズのに。裏と表が違う柄です。

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↓ガラス雑貨を作ってる方のところで見つけたネックレス。透明ガラスのもあったんですが、これが何かいいなあと思いました。もやっとした色合いが不思議な魅力。焼いてみてから、いい模様の部分を切り出して作るのだそうです。だからこれも、偶然できた模様のようです。

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↓何かいい感じのお茶碗。見て「好きな感じ」と思ったので購入。お皿、中でもお茶碗ってそんなに割れるもんじゃないし、大抵家族が買ってきてくれたもの、人にもらったのを長年使うものだと(?)思いますが、ごはん食べるお茶碗も自分で好きだと思うものを使いたいなあとずっと思ってました。

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若いお兄さんが益子焼の先生に師事して作った、先生の登り窯で焼いたものらしく、電気釜その他と違って費用もかかるので高いけれど、風合いが良くなるそうです。詳しいことを聞いてもよくわからなかったですが……

好きな感じだったのですがいまいち自分は物の価値がわからず食器を買うことがあまり無いので、食器が好きで詳しい義母を呼んできてこれどうでしょうねえと聞いてから買いました(この時そんなにお金を持ってってなかったので一応)。いいんじゃないのということで思いきれました。と言っても千円台(でも同じ方の他の現代風な作品より高かったんで、、)……確かに、他の益子焼の値段を聞いたらうわわわわっとなったから、お買い得だったのではないでしょうか。なにより、好きな感じならそれで、なかなかいいお買い物。

 

最後は帽子。こんなの作るなんてすごいですね。

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この日一番の目的のもの。売っている作者の方が同じテイストの帽子をお召しで、清楚な感じの女性だったのですがとってもお似合いで。もしかして以前買った帽子屋さん? 違うかも?? 記憶に自信がないのでわかりませんが……とにかくあの帽子屋さん来てないかなーと思って来てみたら、帽子屋さんありました。

私は普段よく帽子をかぶっていて、そんなに普段おしゃれな帽子好きという程でもないんですが、でもやっぱり帽子は好きです。でも慣れないと帽子って難しいですよね。色形がよくてもファッションに合っていなかったり季節にあっていなかったり、また被る人の頭の形、顔の形、髪型いろんなものによって似合ったり似合わなかったり。選ぶ自信が無くてなかなか冒険することは無いですが本当はいろいろ被って歩きたい……。これはラタンっぽいつばが付いていて、年中かぶれるわけではありませんが、春~秋長く使えそう。私は頭が冷えると酷い頭痛がするので、冬は必ずニットその他の帽子を被っています。特に風が強い日は忘れず被ります。夏は日焼け防止につばのある帽子。これがなかなか難しく。大抵、お気に入りのキャスケットを被っていますが、どうしてもカジュアルになるので、お洒落な感じの服装でもかぶれるものを探しました。カジュアル過ぎず、よそいき過ぎず。

この帽子は黄色いリボンがぱっと見てかわいいなと思ったのと、頭の形がまあるくなって(きりかえが付いていて上に丸い円形の布がある構造のほうが浅くかぶれて視界が遮られにくいらしいのだけれど)感じがいいなあとこれにしました。

 

JR山崎のロータリー傍にある、cafe tabitabiの2階の「Relish」というお店も雑貨などがいろいろあって、ここもおすすめです。

やばめだけど日記(5)…対応策~メモが取れない、目に入らない

忘れっぽいことに対して何かしなきゃと思った私は、いろんなことをメモするようにしました。以前からよくメモはする方でメモ帳を持ち歩いたりはしていたんですが、日々の生活に関するメモをするようになったとき、問題に気付きました。
まず、メモをどこかへやってしまうこと。
メモするのを忘れてしまう。
メモを見るのを忘れる。
メモを見てもちゃんと読めていない。目に入らない。


大体はもしかしたらあるあるかもしれませんが、私がストラテラを飲んでいる今もすごく困っているのは最後の「メモを見てもちゃんと読めていない」「目に入らない」です。
先日、確定申告の書類を作成して提出したのですが、親切なことに提出漏れのないようチェックリストがついていました。私はちゃんとチェックリストにチェックマークを入れながら封筒に書類を入れていき、全部入れたと思って出しました(税務署ではなく役所に持っていったのでチェックはしてもらえない)。
ところが、数週間、あるいは一、二ヶ月くらいして(すみませんこういう時間の間隔がわからないのです)机を整理していたら、確定申告で出さないといけないはずの書類が出てきたのです。混乱しました。これ、そうだよね?入れてなかったかも?!とようやくわかって、慌てて関係資料や取っておいたコピーを見たら、ちゃんとチェックリストにも載っている書類で、他の項目はチェックマークがあるのに何故かこれだけチェックがついていなくて、やっぱり入れていませんでした……。
この行だけ目に入っていなかったというか、目には入れたけど何故か頭が「これははねとく」と勝手に判断してしまったような感覚です。その理由も私にはよくわかりませんが、これははねておく、というような不思議な頭の咄嗟の判断はこれまでにもいろいろ有った気がします。文字列を「全てが必要な情報」として認識できていないというか。この行だけ一行で収まりきれていないから異質な、自分に関係ないものと勝手に認識してしまったとか。私はちゃんと見たつもり、ちゃんとチェックしたつもり、でもできていない……。

決して面倒だからちゃんとしなかったわけでもなく。いや、すっごくすっごく面倒だけど。だから取りかかるまでのハードルが高くてなかなか取りかかれないけど。でもがんばって取りかかるとわりとなんとかかんとかできるもので。他の人も面倒だろうことも案外結構こまめにしたがる性格だと思うのですが、どっちでもいいことを必要以上にこまめにやってしまい、必要なポイントをこまめにできていないのかもしれないです。でも本人としてはこまめにやってるから、かなり疲れていつも消耗しています。こういう取捨選択が難しいのです……。
こういうのはなかなか人にわかってもらえません。むしろ、何かをよくこまめにやってるから、いきなり変な失敗をすると「できるのにやらない」「こんな簡単なことを間違えるなんて、普通するような簡単なチェックをさぼるからだ」とやっぱりダメな人認定です。そう言われてもチェックは全く簡単ではありません。目に入らないものを目を皿にしてみてもやっぱり見えない。ADHDの人は物事を人より面倒に感じてしまうような所があるようですが、私の場合で言うと、書類のチェックと、例えば生徒会役員に立候補するのとでは同じくらいの面倒さやハードルの高さを感じるのです。頑張れば全くできない訳じゃない、けど、かなり大変で思いきりがいる。人より大袈裟に面倒に感じるというか。

もちろん開き直ってるわけではなく、人に迷惑かけてしまうのは申し訳ないと思っています。

とにかく、よく確認しても、メモをするようにしても、それまで普通にできていたのにあるとき突然のように間違って、気付けば何故自分が間違ったかもよくわからず、反省しようにも次回の失敗を防ぐ手段が無い、という形の失敗ばかりです。今度は○○関係は三回チェックしよう、と思ってもその決意を覚えていられないし、書いておいてもその紙はすぐどこかへ行ってしまうし、メモは張っておいて何度か見ると何故か内容が頭に入らなくなります。内容のある文字ではなく、何かそこにある、意味の無い模様に見えて、目に入らなくなってくるのです。そう、もう目に入らないのです。
チェックしなければいけない事は山のようにあり、やりきれないから必要な事だけ頑張って所々力を抜くと、何故かとんでもないことまで力を抜いてしまい大変な失敗に繋がってしまう。Aの場合は必ずやって、Bの場合はしなくてもいい、ということができないようです。だったらAでもBでも必ずしなければならなくなり、うっかり間違った時それがたまたまBならセーフ、たまたまAならアウト、という、不確実な対策くらいしかできません。

子供の頃から、私がトロいんで、親には「遅い百点より早い70点だ」と言われ、頼み事や質問に対する回答を急かされ続けましたが、これ、本当にきついです。普通でも早い70点なんて結構きついんじゃないかと思うのですが、私の場合、早くしようとすると、0点(間違ってる)とか1点(咄嗟に嘘をつく)とかになってしまうのです。でも遅くなら100点近くとれてしまうので、できないとやっぱり「できるのにやらない」扱いされていました。親でさえそう思っているのだから大抵の人にそう思われても仕方ありません。学校でもサークルでも平穏に暮らしているようで実は常に自分が何をしているのかわからなくなっている状態で、プレッシャーを感じていました。

自分の感覚が信じられず

すごく好きだった方が去年なくなって。信じられなくて、そうだ私はこういうこと全然覚えてられない人だし、こんな重大なことでも平気で勘違いするから、もしかしたら、やっぱり間違いなんじゃないかと思ったり。旦那さんに個人的にメールで聞けなくて。違ったら失礼だし、でも彼女が生きてる前提でメールするの、?も、本当のことだったら不謹慎かと。あのときは何故か本人の携帯にメールした。でも何て送ればいいのかわからなかった。何て送ったかな。そのうち旦那さんに、彼女が生きてる前提でメールしてしまいそうな自分が怖い。自分の感覚が信じられないというのはいつも怖い。

やばめだけど日記(4)…最近でも困っていたこと「視覚優位」

  栗原類さんが最近発達障害ということを世間に公表されたようで、本屋でパラパラ程度ですが本を見てみました。

 

発達障害の僕が 輝ける場所を みつけられた理由
 

  今度買ってみようかなと思っています。栗原さんは私と違って聴覚のほうが視覚よりも優位だったみたいで、うるさい音がとてもストレスになっていたそうです。私は……心理検査をしてくれた心理士さんに検査後の会話の中で「視覚優位ですね」と言われました。耳で聞くのが苦手で、目で見る方が情報を頭に取り入れやすいようで、その時に初めて自覚しました。

 私はADHDの診断が下りてからストラテラという薬を飲むようになったのですが、それまでせんせーに出された薬はいつも飲むのを忘れてしまい、また複数の薬があるとどう飲めばいいかぱっとわからずにいつも困っていました(いらんこと言いのせんせーが、一応出しとくけどこれは飲んでも効かないと思うよとか言うから余計忘れててもまあいいかとか思っちゃうし)。もちろん、薬剤師さんが普通に文字でちゃんと印字してくれているのですが、どうして私にはわからないんだろうと考えて、調剤袋にこのように絵を描いてみました。

  

 ↑できるだけ簡潔に。 これでいつどの薬を何個飲めばいいのか一目瞭然です。これをちゃんと見れば飲み間違うことも面倒で飲まないまま忘れる習慣になることもなくなりました。確かに私は視覚優位で、カプセルの色や数を把握するには文字による説明より絵の方がぱっと見てわかりやすいです。もちろん文字をちゃんと読めば理解はできるけれど、毎日毎日何て書いてるか忘れてしまうので、毎日一から読み直さないといけないのが面倒で面倒で、それで飲まなくなってしまうようです。

  今は、寝る前に青い細長いのを2つ(40mg×2錠)、朝に半分青半分白の細長いのを1つ(25mg×1錠)で、一日105mgです。以前朝と夜半量くらいずつ飲んでいたら、毎日夜中に途中で目が覚めてしまうので、夜を多めにしてもらいました。

  これはいい例というか、視覚に敏感なことがあるのが良い働きをする例ですが、妙なところで敏感過ぎて苦労していることもあります。

 

 

 栗原さんが騒音に悩んでいたように、私は目に雑多な情報が入ってくるとうわあああとなってしまっていました。(ストラテラを飲み始めて何か月か経ちますが(すみません何か月かはわからないです)、そのせいか大分良くはなってきています)。よくツイッタをやっていた頃添付画像を表示しない設定にしていたのに何故か自然に表示されてしまうようになったりして、ツイッタってそういう強制的なのが苦手でした。それがハロウィンの時期だったんで最悪です(メイクでグロいゾンビの画像とか)。もともとツイッタとかスマホとかやり方が全然覚えられなくてストレスだったのに、見たくない画像が目の前にバンバン入ってくるのは私の場合かなりのストレスで。また画像が表示されないように設定したり、公式以外のアプリを使ったりしてはみたんですが、今度はアイコン(プロフィール画像)です。タイムラインを見ていくと、嫌でもその画像がたくさん目に入ってきます。これは消せません。これだけたくさんツイートやリツイートが回ってくると結構私の苦手な画像がたくさんあって、動くやつは怖いとわかるんですが、その他は私もどれが大丈夫でどれが大丈夫でないのかよくわからないです。とにかく受け入れられないものは本当に受け入れられなくて、それがどわーっと来ると……。リツイートは嬉しかったんですが画像の氾濫は実はちょっとつらかったです。

 

   

 実はこれは本当、ダメ人間過ぎて人に言えなかったことなんですが、「本の表紙」がかなり厳しいのです。私は本が大好きで、本屋さんに行くのは楽しいです。でも、本屋さんに並んでいる本は大抵表紙にカバーがついて、そこに絵か写真、文字が描いてあります。もちろん平気なものの方が多いと思うし、視覚でかなりの影響力があるのは多分平積みのだけです。その表紙の絵が、嫌で嫌で本を手に取れなかったり目を背けてしまったりで、表紙のせいで読めないことはもともとよくありました。特に人の顔の書いてあるものに苦手なものが多い気がします。

 子供向けの本は特に嫌いな感じの絵が多かったので、子供の頃は子供らしい本より極力表紙にも絵があんまり無い、挿絵も無い本の方が読みやすいことが多かったです。

 文豪とかの顔を描いた普通のイラストでもだめな時はだめです。(←ダメって、その絵がダメなんじゃなくて、受けいれられない私の受容体がダメということです)好きな作家さんだから買ったものの表紙が苦手で、どうしても読めない、という本が今も手元にあって。もし恐怖症のようなものとか、気のせいなら克服したいと思うんですが。絵は、うまい下手は一切関係ありません。うまいな、可愛いな、と思っても目をそらしてしまったり、嫌だ、と思ってしまうことがあるのです。そうなると拒否反応が出て、中を見るのが難しいです。

 これは本に限らず絵一般なのですが、身近な方やよく話す方の描かれた絵は大丈夫なことが多いのです。そういう、気分の問題なのか、それとももしかしたら人の描く絵を見る機会があった時、もしその絵が苦手だと思って、その上その方がそれをよくネットに上げたりするのを知った時点でもう私はその方からすっと離れているのかもしれません。ネット上では現実世界より結構簡単に人様の絵が観られるし、簡単にその人から離れられます。絵がその人そのものってくらい結びついていて、話したりする度にその絵がしゃべってるような気持ちになっています。何かのスタイルや思想がダメなわけでもないんじゃないかと思うし……個性的なタッチの人の顔の絵が苦手? 違うかな……絵について無知過ぎて分類もできないんですが、必ずではないけど、歪んだ線、その人の特徴を強調した絵、描き込んでいるのに物理的におかしい絵、3DCGみたいな、物理的におかしい感じの立体絵、アニメっぽい絵はダメなことが多い気がします。(←もう一度。ダメって、その絵がダメなんじゃなくて、私の受容体が。テレビで動いてるアニメを見るのは静止画より多分平気だと思います)漫画っぽいのはバリバリ流行りの感じの絵でも大丈夫なことがあるのですが、髪型がダメとかいうことも……不思議なんですが。どういう訳かすごく上手いのにやっぱり受け入れられないこともあります。

 そういう絵が表紙となるとやはり、中が読めなくなります。読もうと思っても読めないくらいだからよっぽどきついのかもしれません。もちろん無理矢理読むこともあるし、そこまで深く考えていませんでしたが。好きじゃない絵の顔を見たら、その顔のイメージがずっと頭の中に残ってしまい、その絵でストーリーが繰り返し再現され続けたり、また、何か関係ない別のことを考える時にもその絵で延々と再現されてしまったりして、しばらくずっと嫌な感じで私についてきてしまうような……頭の中支配されるようで怖いのかな??  気を悪くされた方本当すみません。ここまで絵のことを悪しざまに言ったのは初めてで、この点では私は悪人だなと思います。言わなきゃいいんだけどどこかで吐き出したかったのかも。普段人前では黙ってるけど実は余計な事ぺらぺら、かなりおしゃべりなんで。世の中の嫌な人は皆が好きで嫌な人やってるわけじゃないと思うけど……わからないけど。

 

   

  学校の美術の教科書も苦手な絵が多かったです。特に人の絵です。好きでも嫌いでもないんでなく、嫌、見たくない、あっち行って欲しい。考えたくない。というくらいです。自分でも何かえーーー??? 何でってなります。逆にすごく好きな絵もたまにあるんですが、好きなの以外はあまり目に入れたくなかったです。何でしょう。絵の中の情報量が多すぎるとか?? 印象が強すぎる? 私の中の理想や完璧を求めすぎ? 私の中のコンプレックスを刺激する? 絵から受ける何らかのネガ感情や差別意識(か何か?)を認めたくないから? 違うかな、何だろう? 誰か教えて欲しいです。

 人以外なら写真は(幽霊とか怖い虫とか以外)何でも大丈夫で、というかそういえば子供の頃から私は写真を撮る時に人を入れるのを極端に嫌っていました。端っこにちょこっとでも写って欲しくなくて修学旅行でも(写ルンです)人がいなくなるのを待って景色や花を写したり。だから自分も本当は写らなくてもよかったし。ただ、人物の写真は、自分の子供と、他人だと「私好みの」美少女の写真みたいなものなら大丈夫です。お人形は全然問題ありません。

 写真を見るのは割と好きです。また、写真や絵でない、実際の人や動物や風景では視覚的に苦手ということは特にありません。現物を見る感覚は他の人とそんなに変わらないと思います。

 何かなあ。墓場まで持っていくべきことだったかもしれません。(現在はストラテラを飲んでいるせいか??人の絵を見てもそんな苦しくない気がします。そんな嫌な気持ちというのがこの薬で治るもんなのかよくわからないですが)

    

 

 

 その他、お年寄りによく聞くような(汗)商品名がわからない問題とか。私はこれじゃなきゃ駄目な気がする拘りを持ってしまうことがあり、いつも大体決まった商品を買うんですが、パッケージの見た目で覚えていて、商品名やメーカーがどうしても覚えられません。パッケージが変わるとかなり焦ります。増量、とかはいいけど。

 ハンドソープ、シャンプー、洗剤などは詰め替え用を買ってるので中身を間違えると困ります。ああいうのは違うメーカーで似たようなのがあるのと、店舗によって同じシリーズでも扱ってる匂いが違うのはよく間違えてかなり困りました。(せーり用品は本当に似た感じのパッケージが多くて、いつも同じのを買いたいのにいつも違うのを買ってしまいます。あれも結構自分に合わないのが有るのでかなり慎重に探しますが、間違えます。切実。)

 こっちはまあどうでもいいのかもですが、私は以前レトルトカレーの「カレー職人」を試食して美味しいなと思い、買う時はそれを買うようにしていたんですが、カレーのパッケージって結構皆さま似てるので、間違えて咖喱屋カレー」を買ってしまうことがあります。漢字も何も全然違うんですが、視覚で覚えてると言っても所詮私の脳、その程度の見た目しか覚えていませんし、人の顔を間違えるような感じでかなり混同します。画像検索してみたら縦書きか横書きかも違った。そして名前もメーカーも思い出せないので店員さんにも聞けないし、店頭にカレー職人が見つからなかったら近所の店で売ってる咖喱屋カレーばかり目に入ることになるので、今度はその画像が頭に定着してしまい、今度はこれがあの美味しかったやつだと思い込んで、油断するとわざわざこれを買ってしまいます。でも味が全然違うので買い間違えると本当に嫌なんです。

 

   

 

 よくいろんなもの間違えて買ってイライラしてしまい、やっぱり拘ってしまうんですね私は……。

 

  周りを見ると、特に発達障害とかでなくても感覚の優位性が人によって違ったりするみたいですね。

 また、視覚優位の私でも聴覚に過敏になる事はもちろんあります。近くでいきなりシャッター音がしたら、どきっとして凄いキョロキョロしてしまいます。あの音は一瞬で理解できますね。電子音とはいえ。これは以前盗撮被害に遭ったからあの音と結び付いたというのがあると思いますが、結構街中で聞こえてくるんですよね。聞き逃してないとは言えませんがかなり過敏になってます。あと、盗撮じゃないけど外国人観光客が街の風景とか人波とか撮ろうとしてこっちにカメラ向けるのやめてほしい。後ろでカシャとか聞こえると、ん?!?!?! ってきょろきょろしてしまい。本当に嫌で逃げ回ってます。この話題はまた違う問題かも。

 

 ADHD日記、すみませんまたつづきます。あと1つか2つ?