麗ブログ

うらぶろぐ

気を遣っているのか、身を守っているのか

最近ブログ書いていなかったのでメモとして。

 

 とある整体みたいなのに行ってみた。初対面なのに結構会ってすぐにきさくな先生から、あなたは周りの人に気を遣いすぎ、と言われてしまった。予約時のメールの文面とかからしてそれがすごく出ていたとのこと。。。言われてみると確かに。

 でも、どちらかというと私は気が付かない方だったので、周囲の様子に気を付けるように努力して、その加減がよくわからないからとりあえず思いつく限り丁寧にしておく、ということをしているだけで、子供時代は、全く気が利かないわけではないけど、周囲のことに気が付かない、という評価を受けることが多かった。親に一番よく言われて困ったのが、「おまえは赤ん坊の死体が落ちてても気が付かない」という例えで、少なくとも私の周りでそういう事件は起こったことが無いしそんなこと言われても……だからそんなことはないと反論できなくて。親の世代ではそういうこともあったんだろうか。何で繰り返しそう言われてたのかわからないけれど、ADHDだから子供の時から注意力に欠陥があったのは確かにそうなのかもしれないとは思う。一方で、私が好きな事にはかなり熱中している様子を見た母親に「熱中しすぎるな、そういうところ気を付けないと」という風に言われていた。高校生くらいになっても。だから私は我が家の一大イベントである受験を意識して、好きな物事に熱中しないように気を付けてはいて(「ほどほどに丁度良く集中する」のはどうしても無理だった。するかしないかしかできない)、つまり、周囲をよく見て、好きな物事に集中しない、でも必要な事には集中しなくてはいけない、というかなり私にとって無理な頑張り方をしていたのだった。無理だったけど。

 だから加減がわからず気を抜くと今度は抜き過ぎてしまって、社会人として、または人としてまずいことをしてしまうんじゃないかというのがとても怖い。気を遣うのも、そうしないと相手に相当迷惑をかけることがあるから。本当実際、洒落にならないことをすることがある。大学に入って、狭い家庭から外に出てから特にそうだったけれど、バイトとか、人とやりとりする時でも雑談する時でも、もうちょっとこうできないの?もう二十歳過ぎてるんだよね?もう大人だよね?という注意のされ方はいろんな人から受けてるし。特に、けじめとして人に自分の考えを伝えたり、仁義を通したりすることに関しては、当時の私にはやるべきという発想も無く、やるとしたらどこまでやっていいのか全くわからなかった。いろいろあったけどわかりやすい例では、ありがとう、ごめんなさい、お願いします、といったこと。一回言えばいいのか、何度でも感情をこめて、いろんな言葉を駆使して大袈裟に伝えないといけないのか。大人ならできて当然なことが私にできていないのはわかっていた。指摘されてから努力は始めたけれど、今も多分できないことが多い。だからできるだけ気は使わないといけなくて。先ほど、気を遣わないと迷惑をかける、と書いたけれど、それ以上に、気を遣わないと攻撃される、とも思っていた。私は人から攻撃されることが結構多かった(注意してくれた人達のことじゃなくて。もっと本当に悪意がある知らない人とか。私をいじめていた同居の祖母とか)。周りに敵が多いことも知っていた。初対面の人が攻撃してこないとも限らない。だから気を遣う。そういう意味で、私はあんまり安心できる場所がない。身を守る為に丁寧にして、相手に譲っているのだ。心は憎しみに満ちていても。

 実はありがとうというのも苦手で、もちろん人一倍言うけれど、言葉とか表情とか声色とか態度とかしぐさとか、どこまでやればいいのかわからないからやりすぎる。まあー〇〇さん、(感嘆詞と相手の名前や先生、などの人称代名詞を入れるのがポイント)本当にすみませんすみません、ご親切にありがとうございます、本当に。と何度も何度も言ってると、気持ちよりも相手にどう見えるか、ということばかり意識してしまって。そういう場面って、大人同士別に本心なんてどうでもいいことが多いけれど、それで丁寧な人、優しい人、親切な人、誠実な人、と思われてしまうと結構つらい。実は内心、そうしないといけないと思ってやってるだけで、こんな気を遣わないといけないことにうんざりして、疲れて、いやいややってたりするから。私が自分で思ってるよりは毒が無いしいい人なのかもしれないけれど、優しい人と言われると、実際がどうあれ結構嫌な気持ちになる。この、自分で嫌な気持ちになるのが良くないのだ。自分が嫌でなければどう振舞っても別にいいと思うんだけど。

そういうことをいろいろ考えてしまった。