麗ブログ

うらぶろぐ

誕生日落書

母親から誕生日おめでとうというメールがきて、最後に「生まれてきてくれてありがとう」と初めてそういう言葉が書いてあって、ほんとにお互いに今更、だけど、正直私は………

………んだよと思っている。でもそれは絶対に口に出せないし本来どこにも出してはいけないとわかっている。けど、裏ブログだし。

私がそう言われると嬉しいと思いこんで疑わない母の無邪気さに、いつものようにがっかりさせられる。多分どこかで聞いて素敵な言葉だと思ったんだろうな。私に本当に感謝してるのかは知らない。よかったね、お母さん。

おまえなんて生まれて来なければよかったと言われたとしても何と返せばいいかわからないけど。多分それよりは随分と恵まれてるんだろう。

昔父親にはこんな子いらないと言われたけど、それはありがたかった。やっとわかったかと。いや、わかってないけど、自分がかわいくて言ったんだろう。馬鹿馬鹿しい。

怒鳴り散らしたい。

なんかもう怒鳴り散らしたくなる。頭の中では怒鳴り散らしてる。

ひとりになりたい。気分転換したくてひとりで出かけるつもりだったのに、子供がついてきて、私が楽しいところに行きたかったのに結局子供が行きたいお店でおやつ食べて、その後子供がおもちゃ売り場に行っちゃっておもちゃの見本からずっと離れなくて、ただでさえコロナの流行で人混みにいたくないのに1時間以上後ろで何もせず立ってた。置いてけないし。すごい店内放送とか人の声とかうるさくて、頭ががんがんしておかしくなりそうで耳を塞いでた。

5時になって子供を急かして帰ったけど本当に疲れてしまって、家を出ない方がよかった。昔は8時過ぎても帰りたくないとひっくり返って抵抗するのを引きずって帰ってたから、それよりはましになってるんだけど、当時の気持ちも蘇ってきて最悪だった。家に帰っても子供に食べさせたり宿題させたりがまたたいへんで、何で私がひとりでここまでしないといけないのか、本当に腹が立って頭が痛い。怒鳴り散らしたい。明日は実家に行かないといけなくて、親や祖母はいつも怒鳴り散らしてたのに何で私だけ我慢しないといけないのか、とモヤモヤ考えてしまう。怒鳴り散らしたい。しねとか言いたい。誰に?わからない。世界中に向かって。

多分私は、認知症とかで理性で自分を制御できなくなったら手当り次第物を壊して怒鳴り散らして人を殴ると思う。それは自分でどうしようもない。何で生まれてこないといけなかったのか。

内へ向ける暴力について

 (Twitterの投稿をコピーしてこっちへ移しました)
実家も結構宗教で揉めたからな。そして実家自体が家長を教祖とする実家教のようで本当大変だった。周りにはわかってもらえないし。しょうがないから友人には親が過保護で~みたいに冗談ぽく愚痴ったりしてたけど、おもいつめてなんどもいえにひをつけようとおもったりした。

ただの愚痴だけど。私もあっち側の人間だということ。私はひをつけなかったけどそうしなかったのが良かったとは思っていない。ただするかしないかは本人の人格の問題ではなく、追い詰められた時に攻撃をどこへ向けたかの違いじゃないかと思う。私は自分の身体を攻撃する方へ行った。というか、

外への攻撃を我慢した結果自分がしなないように身体が悲鳴をあげたのかもしれない。細胞が壊れたり頭痛がしたり胃痛がしたりというのは恐らく自分の限界を知らせる身体の悲鳴。わたしの我慢するという意思は結果的に自分の身体への攻撃となった。これもまた暴力なのだと思う。許していいことではない。

何の話をしてたんだっけ。ただの愚痴だった。今度またもう少し整理したい。

別離の準備

「本当にそうなのかなあ」
と子供が言って、私は黙った。
「そうじゃない気がする事がある?」
少ししてそう聞くと頷いた。
 子供は赤ちゃんの頃からずっと夜を怖がって、眠るのが怖い、夢が怖いと言う。だから、ママが守るよ、ママはあなたの味方だよ、安心していいよといつも言い聞かせてきた。なのに今日初めて「本当にそうなのかなあ」と本音を吐露したのだ。確かに、本当には味方じゃないかもしれない。それは正しい。

 赤ちゃんの頃から、ずっと子供を愛してるふりをして、大好きだよと言い続けた。だから子供もママ大好きと必要以上に、明らかに必要以上に言い募った。まだ七歳で、私も自分はその頃まだそんな事に気付いていなかったから、まだもう少しは気付かないと思っていたけれど。
 私は多分、愛そうと努力はするけれど本当には人というものを信じていないし、全人類、世間一般を敵とみなしているところがある。そんな人間に子供を育てられるわけがないと気付いたのも最近のことで、知っていたら子供は産まなかったし結婚もしなかったと思う。子供が生まれた時から、どうしても拭えないこれは他者だという感覚、この子は病院で取り違えられたよその子ですよと言われたら信じただろうし、かといってそれで何か変わる訳ではない。血の繋がりなどどうでもよい、私に割り当てられたこの子を育て、守ろうという不思議な意志の力でこれまで頑張ってきたのだ。
 実際この子は生まれた時のあの子ではない。あの子はもっと小さかったし赤ちゃんだった。今は細胞も全部入れ替わって、身体的にはもうあの子ではない。私の細胞だったのは昔の話。この子は他人、多少似ていようが私とは何もかも違う別の魂、別の意思の塊、私ではないし、目に見えぬDNA、遺伝子など私にはどうでもいい話。別離の準備はとっくにできていた。

 多分、これでよいのだ。この子は賢いし、ちょっと感受性が豊かすぎるけれどすぐれた直感も持っている。狡さもちゃんとある。まだ小さいからこれからもとくべついちばんの大事な子、と言い続けるけれど、それも全くの嘘でもなくて私が上手くやれないだけ。上手くやる努力もしていこうと思う。上手くやれないのが親というものらしいから。
 人間に必要だという絶対的な安心感を子供の脳に植え付けられなかったことを心から申し訳なく、可哀想に思いながら、母子の別離の準備は着々と整っているのだ、この子は一人の人間になれるのだと、そこだけは安心して、私は密かに涙を流す。

週末七五三

 本音を言うと、七五三は子供が好きな着物着て喜びさえすればそれで良くて、私は見なくていいから子供を夫両祖父母に預けてしまいたい、儀式とか写真撮影とかお食事会とか全部皆でやってくれたらいいのにと思う。子育ての大変なとこは私一人がしないといけないのに、喜ぶのは皆で、なんだな。周りが喜ぶ為のイベントに私を巻き込まないでほしい。人が来る準備、夫は仕事が忙しくて一切できないし、義母がいる平日はテレワークせず出社するって。私はしんどくてもうずっと寝ていたい。子供の成長は喜ばしいけど七五三は憂鬱。

ニャコ

はてなプロフィール画像著作権のあるキャラクターの模写だったので、自分で作った猫の絵に変更しました。小学校3年生くらいの時に自分で作ったニャコというキャラクターです。

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このように体もあり、日本語を喋ります。いろんな主人公の友達役の「ニャコ」として登場していました。本当にこのまんまの顔でした。

こうして見ると何かシュールだな…
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もうちょっといいアイコンが描けないものか。

本にカバー

 後暗い気持ちがあるから表では言えないけれど、表紙の絵が苦手で読めなかった本にカバーをかけたら、もう楽で楽で、本の内容を楽しむのに集中できるのが嬉しい。この本すごく好き。この小説好き。表紙に描いてあったと思う絵の人物が魅力的にしか感じない嬉しさ。

 何度でも言うけどその絵が嫌いなのではないです。Twitterで挙げてる本でもありません。絵を描いた方ごめんなさい。上手い下手ではないです。表紙に人の絵のある本が基本苦手で怖いです。(そうでない本もあります。逆に私が大好きな人物絵の表紙を描くかたもいます)

 二度文芸誌の新人賞に小説書いて送って、やっぱり私には無理だと気がつきました。応募するのに券が必要だから指定号の文芸誌を買って、もちろん読むつもりで買ったし、表紙を見てあっ、この作家さんの小説読んでみたかったんだよなーとか喜んで本屋から帰るのです、でも実はその文芸誌は毎号必ず男の人の顔写真が大きく載ってるのです。いざ読もうとすると怖くて開けないのです。

 とはいえ、大丈夫何も起こらないと頭ではわかっているから、読むわけです。小説読むの好きだし。楽しみに。すると今度は。……文芸誌って、文庫本などと違って挿絵が有るんですね。これに気づいてちょっとショックだったんですが、挿絵は人の顔でなくても苦手なことが多いようです、わたし。
 読みながら、表紙と挿絵が気になって気になって小説が頭に入らない。無理して読んで、数年前見たただの鯉のぼりの絵が、今でも憂鬱な記憶となって頭に刻まれています。

 結局ろくに読めないし、だんだん家にあの表紙のあの挿絵のあれがあると思うだけでソワソワしてくるようになって、その文芸誌から離れたいばっかりにすぐ処分してしまいました。
 すぐ忘れちゃってたけれど、考えてみたら同じことを何度も何度も繰り返してきたのです。投稿どころか、小説すら読めないんだ私はと、最近自暴自棄になってきました。もう文学新人賞みたいなものに応募するのはやめると思います。

 もともと雑誌が苦手でした。女性向けの雑誌に突然下着姿の男性の広告が現れてこっちを見てたりするのです。
 女性のモデルさんでも、その髪型は私の好みでない、嫌いな表情や顔の向き、体型、服装、なのにこっちをじっと見てる。やめて。じっとそのままでいないで。
 文章の部分と、広告の部分と、カタログっぽい部分と、雑然と入り交じって、とりとめがない。落ち着かない。ごちゃごちゃしてて頭が混乱する。唐突に話題が変わる。書く人が変わる。無理矢理切り替わってしまう。把握できない。苦手。

 昔、学校の図書館の本には表紙が無かった。文庫本さえカバーが外されて、皆同じ硬い無地の表紙板が付いていた。今思うと味気ないけれど、怖いものに出会う危険も少なかった。知らないうちに守られていたんだと認識している。もっと世の美しい本たちに出会う方が私には幸せなんだろう、私はいま綺麗な手製本やTwitterで見かける美しい装丁の本が好きだ。素敵な本も持っている。洗練されたデザインの本が欲しい。手触りの良い美しい紙、布が好きだ。それなのに、居心地の良かった学校の古い図書館を懐かしく思う。あそこは純粋に小説と対峙できる場所だった。小説のことだけ考えて夢中で本を読んでいればよかった。貧しくて不自由で、頭の悪い子供だったから。