麗ブログ

うらぶろぐ

くつ下

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お題「くつ下」

最近可愛いくつ下達を思いきって売り飛ばしました……

昔からくつ下が好きで、使わないのについ買ってしまう事がよくありました。柄とか色とか模様とか、見た目が好きで。
でも着るもの履くものって、着心地がすごく重要だし、靴下のような小さいものでもコーデを考えると使い勝手が悪かったり。そういうのよくわかんないから気にしない方なのかと自分で思ってたんだけど、案外こだわって、気になってしまう事に気付いて。開封もしないでしまってある使えない靴下が山になってました。で、肝心の使えるくつ下が無い……。
やみくもに単体で可愛いものを買うのはやめました。


《新しい掟》

・足にしっかりフィットするものを買う。←すぐ脱げてきて気持ち悪いから細身でぴしーと足裏を締め付けるものでないとすぐ嫌になる

・長さを考えて買うこと。長さが半端だとスカートの時変に見えて嫌!
短かすぎるくつ下はレギンスの時何故か足首が出てしまうからよく考える。

・真っ白などは、汚すのが嫌と感じて履けないので買わない

・薄手のものは靴の中で滑らないか? かかとが靴擦れしないか? 素材を確認して買う。

・赤や黄色、黄緑などカラフルなのは私には履きこなせないよ……必要になってから買うこと。

三鷹行ってきました

 写真がうまく貼れません(´;ω;`)ブログ難しいです。

 

 独身時代何となく買って以来なんか好きだった湯呑を最近フライパンの取っ手にぶつけてしまい(TT)ちょっと欠けてしまって、金継ぎしてもらえるお店が三鷹にあることがわかったのでよし、行くぞと思っていたところ、たまたまよそのブログ様で、無人古本屋さんというのが三鷹にあるというのを知って行ってみたんです。(ありがとうございます!)

 

hachi-log.hateblo.jp

 

 BOOK ROADさんは24時間営業とのことで、入るとセンサーで電気がつきました。じっと読みふけっていたら消えてびっくり。。。動くとつきました。サボテンとかあって、何かすごく雰囲気がいい、本棚!って感じのお店で心が落ち着きました。

 金継ぎのところと全く逆方向でしたがどっちもそれほど駅から遠くはないので寒い中ベビーカー押して行ってきました。また行こうと思います。

 

 夕方遅かったせいか本は他の方々の写真と比べて結構少なかったですが、それでもいろいろあって、個人的に気になる東欧雑貨関連の本とかもいっぱいありました。でも何故かいきなり屠畜の本に引き付けられて買ってしまいました。と、屠畜……?! って手に取って……

 

 ガチャガチャでお支払い。本の代金分のお金を入れてガチャガチャをしたらビニル袋が入ったカプセルが出てきて、その袋に本を入れて帰れます。すごいシステム思いつくなあ!

 

世界屠畜紀行

世界屠畜紀行

 

 この直前にアンパンマンのガチャガチャを素通りしようとしたらイヤイヤ期の子供がひっくり返って泣きわめいて大変だったので仕方なく一回させたらけろっとご機嫌になって、しかもちょっと遊んですぐ「いらない」と渡してきて(怒)ガチャガチャめ~子供目線上に置いてくれよって~と怒っていた私ですが、私は私でガチャガチャすることになるとは。 

 

 三鷹は結婚してすぐ住んでいたことがあり、すごく懐かしかったです。半年くらいしか住んでいなかったので知っている地帯はかなり限られていますが。あまり変わらない町だけれど、十年も経つとやはりあれこれ変わっています。でもここにこういう店があったなとかいろいろ懐かしく思い出しました。まあ、今でも駅前は時々行ってるんですが。隣の吉祥寺じゃなくてわざわざ三鷹に買い物とか遊びとかに行ったり(笑)懐かしのコラル、昔から好きだった広い本屋は時間の関係で行けなかったけれど、ハニーズでちゃちゃっと買い物してきました。

 

 金継ぎが無事済んで戻ってきたらまたそのことを書かせてもらうかも。

 しかし寒かった!!!

新しく始めたいこと

今週のお題「新しく始めたいこと」

 

 新しく始めたいことが密かにあって、もしかしたらこういうことはもっと若い時にするもんだと言われるかもしれないけど、でもやってみたい気がする。だって、一人暮らしとか一人旅とか、好きな勉強とか、海外(地方)留学とか、変わった趣味とか、もちろん若い時にしかできなかったかもしれないこともあるんだろうけれど、どれも私が「結婚前の若い女がとんでもない」とか言われることだった。ということは、昔、若い時は好きにできない、が当たり前の時代があって、今は若い時にしか好き勝手できないよ、と言われる時代だけれど、そのうち「自分の為の人生なんて60まで、それからは親、または親世代の介護をしなきゃならない時代よ!」と言われる時代になってるかもしれない。若い時にできなかったことを老後にいろいろしたいなと思っていたけれど、考えてみたら、これからせっせと子育てして子供のための人生が終わったらもうすぐ還暦じゃん。それまで何もしなかったのに老後に好き勝手に生きられる状況を自分で作れているかと考えると疑問だ。まさに今、遅いと言われようがなんでもやってみていいんじゃないかと思う。

 

 少なくとも、昔「大人になったらわかるよ」とか、「後から考えると若い時の悩みはただの~だったとわかるよ」、と言われた類のことで本当にそうだったなあ、と思うことは今のところひとつも無い。まだ私が未熟すぎるということかもしれないけれど、人の言う事に今も全然納得していないことは確か。偉そうな事言えない流されてきた私だけれど、時代が変われば基準も変わるから、人によって時によって私に押し付けてくるものは違っていて、その全部に屈していては私が好きな事をする隙が無い。周囲の言う事よりも、自分の納得することを、失敗してもいいから(むしろ失敗くらいいくらでもした方がいいんだと思う)やってみたい。

 でもそれはとても勇気のいることで、若い時と違って、或る程度歳をとって自分の弱点を知れば知るほど、本当に新しいことがやっていけるのか不安になってしまうものだと思う。

お題「2枚目に買ったCD」

お題「2枚目に買ったCD」

 

 

ポートレイト

ポートレイト

 

 

 「月に寄せる歌」とかトゥーランドットの「お聞きください、王子様」とかすごい好きでした。昔よく聴いてましたが、そういえばしまい込んでずっと聞いてなかったです。

 CDを買いだしたのってとっても遅くて(一応CD世代だと思う)、昔からあまり音楽を聴かなかったのですが……テレビCMで中丸三千繪さんの歌を聴いてすごく気になって、CD買ったりコンサート行ったりしていました。うまい人はいっぱいいるけど私は天使の歌声系よりどちらかというと完成された大人の声が好きで、その点中丸さんはぶれず美しく強くというちょっと超人的な感じで、私の理想にはまりました。オペラ歌手だと当たり前かもだけど常に正確な音程、音量の強弱はあっても常に強い声、でもマリアカラスみたいな強さじゃなくて、すごく繊細な情緒がある。私は生で聴くとあまりに美しい響きによく泣いてました。その上で何か人を引き付ける魅力があって、なんだろう、次はどうくるのかなとわくわくさせるドラマチックな歌手だと思います。難点は、CDだと音量の強弱がつきすぎて、初めひそひそ声で全然聞こえないなーと思ってたらいきなりどかーんと大声量がくるので、びっくりして部屋で聞きづらいです。当たり前だけどコンサートで生で聴くのが一番です。

 

 そういえば子供が観ている幼児テレビ番組の歌のお姉さん、今年の4月から変わってしまって、今のあつこお姉さんも私は大好きですが、彼女が結構人間的情緒的な歌い方をするのに対し、前のたくみお姉さんはまさに超人的でした。機械が歌っているようなと言ったら全然誉め言葉じゃないみたいですが、私はそういう超人的な完璧を目指すぶれない歌が大好きなんです。

 学生の頃ナンジャタウンに行った時、今もあるのかわかりませんが、等身大の女の天使人形が時間になるといきなり動き、口をパクパクさせてオンブラマイフを歌い出して、その奇跡のような美しい光景を見て私はとても感動しました。ああいう感じです。私が「機械が歌うような」と言ったのは。現実離れして幻想的ですらあります。

 たくみお姉さんもああいった感じで、あまりに正確できれいな音(声)を出し、うまいんでいつも目を見開いて見てしまっていました。彼女の歌を聴けなくなるのはちょっと残念だなあと思いました。でもでも、あつこお姉さんは一つの音にも幅があって純クラシックっぽい、つまり人間的、そして可憐な女性っぽくって、おにーのぱんつはいいぱんつ~をベルカントっぽく歌うのは感動するし(笑)声も好きなんで、いつも子供と一緒に楽しみに観ています。顔は歴代のお姉さんの中でもすごく可愛い、わたしの好きなタイプだし(/ω\*)

 音楽のことよくわからないのにいろいろ語ってしまいました。

この痛みは誰のもの

 ジャイアンと言えばまず思い浮かぶ名言であり理不尽の極みとも言える、「おまえのものは俺のもの、俺のものも俺のもの」というセリフ、数年前に意味が書き替えられていますね。その時たまたまアニメのドラえもんをテレビで実際に観ていたので印象に残っているけれど、のび太ジャイアン達が小学校に入学した日に、行方不明になり危機に陥ったのび太ジャイアンが探し、無くしたランドセルを取り戻してやるのだが、おまえのランドセルは俺のものだから取り戻してやって当然だ、というようなことで二人の友情の証しとなったという、後付けの解釈として、ネット上でも大変評判となっているようだ。

 原作作者は初めドラえもんでそれほど崇高なものを描こうとはしていなかったのではないかという気がするのだが、長編映画を製作するうち藤子F不二雄先生がだんだん、漫画やアニメの持つ社会的役割を考え始め、子供のことを考えた作品作りを目指すようになっていたらしいので、この手の「いい話」は藤子先生が作ったものではないにしろ、その意思に反するものではないのかもしれない。

 ただ、これは個人的な思いだが、私はこのジャイアンのセリフの新解釈には非常に苛立ちを覚え、元の身勝手で理不尽な「全部俺のもの」宣言には感じなかったような怒りが湧いた。というのも、幼いジャイアンのび太のランドセルを自分のものとして懸命に取り戻し、取り戻した悦びも二人で共有しようというのだ。これは物理的のみならず精神的な搾取強奪だ。自分のマンガ本やおもちゃを俺のものと言われて「違う」と主張するべきなのと同様、いやそれ以上に、のび太は自分の苦しみや痛み、彼の人生の根幹を他人に譲り渡してはいけないと思う。この痛みは「おまえのものじゃない」。この痛みは「僕のもの」ではないのか。この話を考えた人は本当に人にそれを譲り渡した経験があってのび太ジャイアンにそのようにさせたのだろうか?

 人に「あなたの痛みは私のもの」と言われたら私は怒り狂う。違う。私の痛みは私のものだ。人の痛みを自分の痛み「のように」感じるのと、人の痛みを自分の痛み「として」感じるのとは全然違う。いくら想像を働かせても、人の痛みなど他人には全部わかるわけではない。わかりたいと思い、寄り添うのは優しさだと思うけれど、本人じゃないのにわかった気になって苦しんだり悲しんだり、また本人の代わりに笑ったり喜んだりするのに関しては、おまえは誰の人生を勝手に生きようとしてるんだよと思う。
 昔、私のすることに一喜一憂して、私の失敗を自分の失敗と思い、本気でイライラして不機嫌を私にぶつけてくる人がいたけれど、その時点で私はその人の成功を邪魔する加害者として扱われている。私の失敗や痛みを自分の痛み「のように」ではなく、自分の痛み「として」感じるから、多分その人は本気でつらかったんだろうとは思う。それは気の毒だ。しかしそれはあまりに自分本位で、私の気持ちより自分の気持ちを優先させているということではないのか。何様のつもりだ。

 私の個人的な経験はともかく、ここを間違えるべきではないと思う。人のものは人のもの。人の痛みは人のもの。いやどんなストーリーを付け足しても根本的にジャイアニズムなので結局強引な考え方でしかないのは当然なのだけれど。美化したジャイアニスムも自分本位なのは同じだと思う。寄り添う努力だけすれば十分なのに、それすらできず思い上がった子供の思考でしかない。当初の「おまえのものは俺のもの、俺のものも俺のもの」というセリフが評価されたのはその堂々たる開き直りが独創的で潔いからだ(元ネタがあるという噂もあるけれど、このセリフを読んだ多くの子供は初めて触れた強烈な思想と言葉に衝撃を受けたと思う)。人にそしられようと構わないと覚悟の上で自分の生き方を貫いているからだ。強引に美化した新解釈は潔さが決定的に不足していると思う。

 とはいえ、ごちゃごちゃ余計なことを書いたのかもしれない。ここまでくれば本当は、おまえが好きだから助けたんだよというジャイアンの照れ隠し的愛情表現である可能性の方が高いと思うけれど、だとしたら潔くない。どちらにしろその潔くない女々しい態度のせいで私には、このセリフの価値が下がったようにしか見えない。

黒髪のみだれもしらず

お題「好きな短歌」

 

黒髪のみだれもしらずうちふせばまずかきやりし人ぞ恋しき

和泉式部 後拾遺集755

 

 短歌ってやっぱり詩だし、もちろん定型詩だと正しい読み方ってのはあるんだろうけどそれ以上は受け取り方もひとそれぞれ、受け手側の持つ経験も心の持ちようも本当それぞれなので、変に思い入れの強い解説や現代訳を読むとちょっと自分の感覚と合わないように感じる時もあるので、私的な解釈などはおいておいて、これは文句なく三十一文字だけでぐっとくる歌だと思います。絵が浮かぶだけでなく、この彼女の感覚、実際感じたことのあるらしい手の感触、そして胸に浮かんでいるであろう言葉以前の彼女の思い、うちふし泣く彼女を客観的に見ている何者かの視線まで、私はこのような体験が無いのに心に呼び起こされてしまうという、そういうところが好きだなと思います。

 ~人ぞ恋しきというのはありふれた感じがして正直別に好きな終わり方ではないのだけれど、比喩や凝った言い回しを使わずただ「恋し」という単純な言葉であるのがやはり良いような気がする。それだから具体的なエピソードから普遍性が高まり彼女に引き込まれるのかもしれない。黒髪、みだれ、~もしらず、うちふす、~せば、まず、かきやる、~りし、を中心に(っていうかそれってほとんど全部)言葉の美しさと、リズムの良さに感動します。うちふせば、が私は一番言葉として好きです。「まず」が間に入っていることで前半と後半がそれぞれ際立って、それがきれいにつながっているなあと感じます。まず→恋しき、できれいに収束して。

 というあたりが、この短歌の好きなところです。

臓器移植とか

病気のことは別に書くことも無いと思ってたけど、まあ雑談ブログなのでいいや。書こう。
私と同じ病気のお仲間に久々に会ったり様子を聞いたりする機会があったんだけど、そのうち二人も臓器移植をしていたことがわかってびっくりしました。特殊な病気なので狭い世界かもしれないけど、そのなかで二人も……。私もできれば移植は受けたいけど、これは合併症が酷くなっている人が優先だから、今のところ私に順番が回ってくることは無いだろうと思って全然積極的には登録を考えていません。人工透析してるくらいの人は障害認定されてるし、絶対そういう人が、生きるために先にするべきだし。簡単に移植とか書いたけど、全然簡単なことじゃなくて、聞くところによると本当に大変みたいです。死ぬほどの痛みや辛さに耐えなければならないので、敢えてそれを選ぶ理由や勇気や覚悟なんて、今の私には無いのです。皆さん本当に楽になって欲しい。手術成功して定着して健康を手に入れた方々には一ミリの嫉妬も無く、ただ称賛と、よかったなあ、よかったなあ、という涙の出そうなくらいの安堵があるばかりです。臓器を提供して下さった方の命の尊さに値する、尊い人達です。
生きるということをまた考える。
……そして難しすぎてまだわからない。