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うらぶろぐ

この痛みは誰のもの

 ジャイアンと言えばまず思い浮かぶ名言であり理不尽の極みとも言える、「おまえのものは俺のもの、俺のものも俺のもの」というセリフ、数年前に意味が書き替えられていますね。その時たまたまアニメのドラえもんをテレビで実際に観ていたので印象に残っているけれど、のび太ジャイアン達が小学校に入学した日に、行方不明になり危機に陥ったのび太ジャイアンが探し、無くしたランドセルを取り戻してやるのだが、おまえのランドセルは俺のものだから取り戻してやって当然だ、というようなことで二人の友情の証しとなったという、後付けの解釈として、ネット上でも大変評判となっているようだ。

 原作作者は初めドラえもんでそれほど崇高なものを描こうとはしていなかったのではないかという気がするのだが、長編映画を製作するうち藤子F不二雄先生がだんだん、漫画やアニメの持つ社会的役割を考え始め、子供のことを考えた作品作りを目指すようになっていたらしいので、この手の「いい話」は藤子先生が作ったものではないにしろ、その意思に反するものではないのかもしれない。

 ただ、これは個人的な思いだが、私はこのジャイアンのセリフの新解釈には非常に苛立ちを覚え、元の身勝手で理不尽な「全部俺のもの」宣言には感じなかったような怒りが湧いた。というのも、幼いジャイアンのび太のランドセルを自分のものとして懸命に取り戻し、取り戻した悦びも二人で共有しようというのだ。これは物理的のみならず精神的な搾取強奪だ。自分のマンガ本やおもちゃを俺のものと言われて「違う」と主張するべきなのと同様、いやそれ以上に、のび太は自分の苦しみや痛み、彼の人生の根幹を他人に譲り渡してはいけないと思う。この痛みは「おまえのものじゃない」。この痛みは「僕のもの」ではないのか。この話を考えた人は本当に人にそれを譲り渡した経験があってのび太ジャイアンにそのようにさせたのだろうか?

 人に「あなたの痛みは私のもの」と言われたら私は怒り狂う。違う。私の痛みは私のものだ。人の痛みを自分の痛み「のように」感じるのと、人の痛みを自分の痛み「として」感じるのとは全然違う。いくら想像を働かせても、人の痛みなど他人には全部わかるわけではない。わかりたいと思い、寄り添うのは優しさだと思うけれど、本人じゃないのにわかった気になって苦しんだり悲しんだり、また本人の代わりに笑ったり喜んだりするのに関しては、おまえは誰の人生を勝手に生きようとしてるんだよと思う。
 昔、私のすることに一喜一憂して、私の失敗を自分の失敗と思い、本気でイライラして不機嫌を私にぶつけてくる人がいたけれど、その時点で私はその人の成功を邪魔する加害者として扱われている。私の失敗や痛みを自分の痛み「のように」ではなく、自分の痛み「として」感じるから、多分その人は本気でつらかったんだろうとは思う。それは気の毒だ。しかしそれはあまりに自分本位で、私の気持ちより自分の気持ちを優先させているということではないのか。何様のつもりだ。

 私の個人的な経験はともかく、ここを間違えるべきではないと思う。人のものは人のもの。人の痛みは人のもの。いやどんなストーリーを付け足しても根本的にジャイアニズムなので結局強引な考え方でしかないのは当然なのだけれど。美化したジャイアニスムも自分本位なのは同じだと思う。寄り添う努力だけすれば十分なのに、それすらできず思い上がった子供の思考でしかない。当初の「おまえのものは俺のもの、俺のものも俺のもの」というセリフが評価されたのはその堂々たる開き直りが独創的で潔いからだ(元ネタがあるという噂もあるけれど、このセリフを読んだ多くの子供は初めて触れた強烈な思想と言葉に衝撃を受けたと思う)。人にそしられようと構わないと覚悟の上で自分の生き方を貫いているからだ。強引に美化した新解釈は潔さが決定的に不足していると思う。

 とはいえ、ごちゃごちゃ余計なことを書いたのかもしれない。ここまでくれば本当は、おまえが好きだから助けたんだよというジャイアンの照れ隠し的愛情表現である可能性の方が高いと思うけれど、だとしたら潔くない。どちらにしろその潔くない女々しい態度のせいで私には、このセリフの価値が下がったようにしか見えない。